【雑記】エッセイを読むことで他人の経験や脳内を反芻する
こんにちは。
いよいよ気の利いたカフェのテラスでお珈琲しながら読書したいなーみたいな気候、みなさまいかがお過ごしですか。
花粉症のみなさんはどうぞ中のお席へ。
今日は読書、特にエッセイを読むということについて、ごくごく個人的な経験や思いを書いてみます。
ブロガーがこぞって紹介感想考察を書き連ねるハウツー本も読まねばならんと思いつつも、わたしの読書の原体験はエッセイで、いまだにエッセイばかり読んでしまう。
エッセイって、その人の人生がそのままでるじゃないですか。
今の思考に至るまでの過去や経験が小説のような商品化をされないままに噴出しているというのがすごくいい。
メタいというか、その著者の人生がそこにあるというか。
小学生の頃は毎年新学期が始まって教科書が配られると国語の読み物だけを片っ端から読んで、2,3日経つ頃には読破してしまっていた。
でも国語の教科書ってあくまで子供に読ませるものであって、面白いけど面白くないじゃないですか。
図書室においてある本も感動した記憶はなし。
そもそも、あんまり図書室行ってなかったな。
そんなわたしが初めて文章の面白さに出会ったのは東海林さだおさんいう漫画家さんのまるかじりシリーズでした(下記、新刊でてますね)。
シウマイの丸かじり (文春文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/4167912627/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_f4ZLCbJ416NY1
本の虫だった父親の、本で溢れかえる部屋の隅でこのシリーズを読んで本当に衝撃を受けたわけです。
使っている言葉は教科書と同じ言葉なのに、こんなに自分の考えを表現できるんだ!
言葉ってどう使ってもいいんだ!
自分の意見をこんなに言っていいんだ!
話題がただただ身近な食べ物だったのも大きかったかもしれない。
大人はみんないろんな難しいことを真面目に考えている偉い存在という妙な固定観念があったわたしには、晩酌の肴の手をつける順番とか、初めてのいちご大福を食べたときの衝撃とか、そんなことを延々書いている大人がいるんだというのがまず面白かったし、その着眼点や考え方ひとつひとつが新鮮で仕方なかったわけですね。
それからは東海林さだおさんはもちろんいろんな著者のエッセイを読むようになりました。
いろんな考えの人がいろんな経験をしてますますいろんな考えを発展させているんだということがわかって、そしてその経験や考えを一緒に体験することができる。
贅沢なことだ。
そんなわけで、わたしもブログになにを書こうか悩んだら、脳内開示と銘打ってどんどんエッセイを書いていこうと思います。
自分の今日は1日分だけど、だれかの1日分のエッセイを読めば1日に2日分の経験ができたことになるじゃないですか。
そのだれかの1日分を担うたくさんの読み物の中のひとつとして、自分の文章をエントリーしていこう。